2010年09月10日

「科学をかっこいいものに!」南崎 梓

この7月から、サイエンスコミュニケーターとして大学広報に採用された。これからは今までと違う方向から科学と付き合うことになる。研究室は居心地が良かった。今は職員の人たちと机を並べている。ちょっと不思議な感じだ。やっぱり職員の人たちは研究者と空気が違う。それは結構寂しいが、だんだん慣れてきた。私は割と順応性が高いのだ。職員のみなさんが夜も遅くまで残って仕事している様子なんかは親しみが持てる。寧ろ愛おしい。私は割とみんなを愛せるタイプなのだ。…片思いにならないよう、仕事を頑張らないといけない。

大学の広報(しかも部局でなく本部の広報)としてもサイエンスコミュニケーターとしても、何をやったらいいのか暗中模索だ。しかし私は科学の魅力を信頼している。科学はものすっごく面白い。だからそのうちいい仕事ができる。はず。



科学のゾクゾク(ビリビリでもドキドキでも良し。ピリピリは違うかな。ワクワクでも大体いいんだけどちょっと弱い気がする。キラキラも、まぁいいか。いや、弱いか。クラクラとか…?もういいか)には二種類あると思う。

まず「よくわかんないけどとにかく面白い!」というゾクゾク。小学校にあがる前の子供にさえ「かっこいい」「なんかすごい」と言わせる、圧倒的な魅力。目では見えないとてつもなく深遠な自然界の姿は、論理を超えて感じるものなのだ。

もうひとつは「そうだったのか!」というゾクゾク。科学には難解な一面もあり、ある程度学問を積まないと、どうしても理解できない。そしてその努力の果てに「そうだったのか!」がある。これを通過すると、それまで見えていなかったものが見えるようになる。目の前に違う世界が広がる快感がある。

研究者を麻薬のように虜にするのは前者のゾクゾクかもしれない。何度「そうだったのか!」を経験しても、さらにその先にある「よくわかんないけどとにかく面白い!」。理解するたび、科学の謎も増えてゆく。科学って果てしないですね。



どうも最近、科学の「よくわかんないけど」の部分が非常にネガティブに受け取られているようだ。現代の科学技術の目覚ましい発展には倫理の問題を含むものも多いから、暴走する科学者像を思い描き、恐ろしさを感じる人がいるのだろう。

しかし私がなんとも悲しく思うのは、そういうネガティブさではなく「よくわからない=どうせわからない=つまらない」というネガティブさだ。理解できないものに対する諦めや無関心さを感じる。簡単に理解したい、じっと考え続けるのなんて退屈だ、早く結果を教えてくれ、という風潮もある。そんなのって、薄くて寂しくないだろうか。

ノーベル物理学賞受賞で日本が沸いたあの頃、意気揚々と語りだす私の前で容赦なくシャッターをおろす知人が数名おり、私は悲しみに打ちひしがれ、夜な夜な枕を濡らしたものだった。「対称性の破れ」という表現の時点でダメだったらしい。



これはもう「よくわかんないけど」を吹き飛ばすくらい「面白い!」を強烈に見せるしかない。実はこれまで私は、「そうだったのか!体験」を上手に提供するのがサイエンスコミュニケーターの腕の見せどころなのだろうと思っていたのだが、広く一般のみなさまにとって科学を「よくわかんないけどとにかく面白い!」ものにするということ自体も大切な使命だわ、と思うようになってきた。大学広報へ転職したことの影響が大きいと思う。

むやみにお笑いに走らず、質を保ち、知的好奇心を刺激することを心がけながら、いろんな表現方法を模索していこうと思う(私としてはNHKのサラリーマンNEOみたいなことを、科学者たちと真剣にやってみたいのだけど)。国民が科学を愛し、謎が解き明かされるのを心待ちにしながら、科学者を応援してくれるような、そんな国にしたいと思っております。←※現職の応募書類に書いたフレーズによく似ている。



なんだかまとまらない所信表明にみたいになってしまった。しかも割と当たり前のことを書いてしまった。読み返すとうじうじしてしまうけれども、締め切りを守るというのが大人です。もう過ぎてるけど。