2012年08月15日

新天地 (安藤 康伸)

久しく伸ばしていたひげが鬱陶しくなったので剃ってみた。
そうしたらエレベータの鏡に映るヒトをみるたび、どうも違和感。
昨日までの自分はどこにいっちゃったのだろう。
でも、しばらくすれば今度はひげ面の自分が誰だか分からなくなることを、
経験上知っている。

物事がうまく行かないたびに、なんでうまくいかないのだろう?と考えてきた。人間関係に例えればずいぶんと、相手を変えないと無理、と思い込んでいた。
それがいつの間にか、どうしたらうまく行くだろう?に変わり、
相手を変えられない以上自分が変わるしかないと思うようになった。
そうやって無理矢理出港して新天地を目指したのは多分5年くらい前。
運良くたどり着いた場所には、ずいぶんと馴染むことができた。
ひげの面影はすっかりなくなっていた。

しかしそこは、いつか去らねばならぬ場所。
竜宮城だったのか、外はずいぶんと様変わりしていた。
友人達は結婚、
日々の仕事に追われ会うこともままならず、
金銭的大人の事情に悩み、
男達の髪の毛は着実に薄くなってきた。
もちろん私自身も例外ではない。三十路はすぐそこだ。
そんな中にあっても私は次の新天地に希望を抱き、
航路はもう定まった、後は漕ぎ続けるだけだと思い込んでいた。

だけどふたをあけてみれば、前の航海とは全く違った。
宝の地図は偽物、
食料もままならず、
風の頼りに訃報を聞き、
何があっても守ろうと決めた心の支えはただの幻だったと知った。
船には独り。
全身はひからびて、暴力的な青色を仰ぐことしかできなかった。

そんな中、私は積極的に渇ききった体を満たしたいと思った。
生きるために。
そして、私は周囲に視線を送ってはたと気がつく。
私はなにが欲しいのだろう、と。
豊かだったはずだったのに、その大半は思い出せない。
必要だと頭で分かっていても、心揺さぶられるモノがない。
「必要」「やらなくてはいけない」という誰かが仕込んだ鎖にすら見えた。
そういったものは、極限状態では寧ろ体をいたぶるばかり。
もう声も出なくなっていた。

だからこそ、偶然にも与えられ、心を刺激してくれるものにとても救われた。
いつもそこにいたはずの星空の歌に気がつけた。
甲板をたたく雨の音に感謝した。
新しい風の感触に涙した。

勇気をだして、ぐっと体に力を入れ、
横たわる樽の隙間から垂れるシェリーに舌を添える。
考え過ぎなくてもよかったんだ。
これがほしい、と心が求めたものは、渇ききった体によく沁みる。

今はなんとか立ち上がり、太陽に誘われて甲板でステップを踏む。
汚れ、壊れ、荒れ果てていた航海の友のメンテナンスを始める。
誰かが書いた地図なんか捨てて、船内の書物に改めて目を通す。
体が欲するものを、ただただ探す。
集まった「好きなこと」のおかげで自分の輪郭がはっきりしてくる。
なぜだか少し笑う頻度があがった、気がする。

まだまだ五里霧中だけど、前よりはまし。
今は今、楽しいことを積み重ね、豊かさの質を変えていこうと思う。
そうしていれば、そんな時代もあったねと笑ってくらせる日がくる、はず。

昔、誰かがうらやましくて歌った一首をこのエッセイの結びに添えて。
私もいつか、こうありたい。


「これが好きだ」を重ねる人は人生を自由に過ごす術を知るひと

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安藤 康伸(Yasunobu ANDO, Ph.D)
産業技術総合研究所 産総研特別研究員
専門:主に第一原理計算を用いた計算物質科学