2014年03月25日

ドイツ小旅行記 (玉手 慎太郎)

初めての海外、ドイツ、フランクフルト中央駅。時刻は朝九時をまわったところ(日本はもう夕方だ)。いくつものホームが並列する、いかにもヨーロッパと思わせる広大な駅舎の端っこで、僕は公衆電話から先生に電話をかけた。

「Hi?」
「先生、おはようございます。玉手です」
「やあ、玉手君。無事に着きましたか?」
「はい、ドイツには無事に着きましたが、ちょっと無事じゃありません。先ほど、財布をすられてしまいました」
「ええ?本当ですか」
「はい」
「それは、まいりましたね」
「まったくです」

それが一昨年の僕の夏だった。

東北大学経済学部の学術交流協定校のひとつであるパダボーン大学(Paderborn universität)経済学部、そこで開かれるワークショップが、僕の初めての英語発表の機会となった。パダボーンはドイツ中央部の歴史ある小都市だ。面積はおおよそ180平方キロで、これは東京都八王子市と同じくらい。そこに八王子市の約4分の1の人々(おおよそ14万人)が暮らしている。地理的には、サッカーファンならよく知っているドルトムント市に近い。
先にパダボーン入りしていた指導教員を追いかける形で、僕は一人、羽田からフランクフルト空港へ向かった。夜に到着する便だったため、その日はそのままフランクフルトに一泊した。ホテルではなぜか一人分の代金で四人部屋に通され、広い部屋で長旅の疲れを癒した。そして翌日、すなわちドイツ滞在の実質的な一日目、晴天すがすがしい早朝のフランクフルト駅前で、期待に胸を膨らませながら、不覚にも、うかつにも、財布をすられてしまったのだった。
ずいぶんと大変なことだと思ったが、パニックになっているわけにもいかないので(そう考えた時点でいくぶん冷静だ)、駅のロッカーに預けておいたキャリーバックから予備のユーロを取り出し、先生に電話をかけた。それが冒頭のやりとりだ。手元のユーロはなんとか片道の新幹線代をまかなえるくらいだったので、僕はそのままパダボーンに向かった。新幹線は日本に負けず劣らず清潔で、静かに走った。車窓にのぞくドイツ中央部の美しい丘陵地帯を眺めながら僕は泣いていた。

僕はそのとき、これまでついぞ感じたことのなかった、「一人きり」という感覚の中にいた。もちろんこれまでも、物理的な意味で一人きりだった経験はたくさんあった。学部一年生のときからずっと一人暮らしをしてきたし、休日だって一人で研究をしていることが多い。そもそも一人っ子だから一人でいることが昔から苦ではなかった。けれどドイツで僕ははっきりと知った。それまで僕が一人でいるとき、それは決して孤独ではなかったのだと。
なぜなら、日本では、困ったときに助けてくれる人がそばにいるからだ。たとえ実家を離れていても、電話すれば両親はなにかしら手を打ってくれる。友人にだっていつでも連絡できる。手持ちのお金がなくなれば貯金をおろすことができる。警察にかけこむことができる。道行く人に問いかけることもできる。ドイツではそのすべてが困難だった。
日本にいて「俺は孤独が好き」などと言うのは、甘えた冗談でしかないのだと思った。それは孤独ぶっているだけだ。なぜなら、たとえ一人きりだったとしても、そこには見えない繋がりがたくさんあったからだ。ほんとうに海外で一人になったとき、僕は声を上げることすらできなかった(もちろんそれは僕がいささか弱い人間であることに起因している部分もあるのだけれど)。

ではなぜ、逆に、僕は日本にいるとき、多くの助けを得ることが出来るのだろうか。
それは一言で言えば、日本という「社会」が、人々を助けるようにうまく秩序だっているからだ。
そもそも社会とは何か。これはとても難しい問題だけれど、つまるところ、「たくさんの人が一緒に暮らしている」ということだ。しかしもちろん、人それぞれ考え方は違う。衝突してしまう。だからそこには「共通の約束事」が必要になる。それはたとえば習慣であったり、法律だったりする。しかしやはり、この約束事というのは簡単には決まらない。約束事によって得する人も損する人もいるし、納得できる人もできない人もいる。
ものすごく簡略化して言ってしまえば、この、いろいろな人が暮らしている社会の共通の約束事を考えるのが「社会科学」だ。たとえば、多様な人々が一緒にうまく暮らしてゆくにはどういうルールが必要か、を考えるのが政治学、多様な人々が一緒にうまく暮らしてゆくためにわれわれはどう生きるべきか、を考えるのが倫理学、というように(ついでに言うと、多様な人々は実はほおっておいても上手くいくんだ、というのが経済学である)。いま僕らの国で大きな問題になっている差別の問題も、いじめの問題も、社会的弱者の問題も、この共通の約束事がうまくいっていないせいで、一つの社会に多様な人々が共存できていない問題と捉えることができる。

僕はドイツに行って、一人きりになって、社会の中でうまく共存できているということの大切さをしみじみと感じた。先に僕は、ドイツで助けを求めることは困難だと書いたが、しかしもちろん困難ではあっても不可能ではない。たどたどしい英語であれ、もし助けを求めたならばフランクフルト駅の駅員やドイツ警察の警察官は手をさしのべてくれただろう。それは、日本とドイツが有効な関係を気づいているからだが、これも国際社会というレベルでの共通の約束事の問題だ(多様な国家に所属する多様な人々が共存するための約束事)。
そしてこれを逆に考えれば、いまのこの国で孤立している人々、老人であれ若者であれコミュニティからはじかれた人々というのは、海外で「ぼっち」になった状態のまま365日生きているのに似ているということになる。これは、本当に恐ろしいことだと僕は思う。僕は半日でもとてもつらかった。自分がゆるやかに暮らしているこの社会で、そんな孤独に陥っている人が実はものすごくたくさんいるという事実を思うとき、僕はやけどしそうなめまいを感じる。
そうであるならば、僕らは社会の約束事を変えなければならない。それが社会科学の意義である(もちろんこればっかりではないが)。政治学であれ、倫理学であれ、社会学であれ、経済学であれ、ひとつひとつがたいせつな研究なのだ。

無事にパダボーンについた僕は、もはや孤独ではなかった。先生は駅まで自転車で迎えに来てくれた。困ったような笑顔で言う「いやぁ、災難でしたね」その夜、僕は先生に夕飯をごちそうになった。ドイツの夏は日が長い。濃紺色の空の下、ドイツビールはとても美味しかった。それは日本では味わえないものだった。


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玉手慎太郎
神奈川大学非常勤講師

社会経済学、経済倫理学を専攻しています。この三月に無事に博士後期課程を修了しました。多くの方々の助けがあって研究できる喜びを日々かみしめています。でもゲームもします。
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