2010年03月15日

「変わりゆくもの・変わらぬもの」山口 飛鳥

やわらかな南風とともに、本州よりもひと足早い花の季節が南国土佐にやってきました。タンポポ、オオイヌノフグリ、菜の花、コブシ、そして桜。博士課程を修了し、ポスドクとして高知大学に赴任した私が、この町で迎える初めての春。

春は、出会いそして別れの季節です。この小文を書きながら私も、過去幾年ものこの時期の記憶を脳裏に描いています。所変わっても変わらず咲き誇る花の姿に、いつかの春の情景や風の薫り、同じ時を過ごした友の顔、会話の内容まで思い浮かべ、ひとしきりの感慨にふけった経験のある方は少なくないでしょう。「さまざまのこと思ひ出す桜かな」と芭蕉が320年前に詠んだように、私たちは季節の循環性と同位相性、そしてその中の不可逆的な時間変化を、花に重ねています。

ところで、私たちの感じる時の流れというのは実におもしろいものです。1日の中に昼と夜があるように、1日という単位では時は循環する。数週間や数カ月という単位では、暖かくなったり、寒くなったりというように、ある方向性を持って時間発展する。1年という単位では、春夏秋冬が繰り返す。いっぽうで数年や数十年単位では、それは私たち自身の視点が変わったり、街の様子が変わったりするからなのかもしれませんが、なにやら時間発展しているように見える。
季節が移ろいゆくこと、それ自体の美しさを、680年前に兼好は「をりふしの移り変わるこそ、ものごとにあはれなれ」と記しました(徒然草第十九段)。循環、もしくは振動する事象と、時間発展、あるいは進化する事象との織りなす「あや」のようなもの、それが私たちの住む世界の美しさを作り上げているのかもしれません。


私は理学の中の地球惑星科学、とりわけ地球のことを物質科学的に扱う、地質学という分野を専攻しているのですが、地球についての研究、なかんずく観察・観測に基づく研究を行う中で、気がつけば重奏低音のように響いてくる問題があります。それは、対象の時空間スケールをどう扱うか、ということです。

たとえば、ある人がどこか対象とする地域に地震計を設置して、地震の観測を始めたとしましょう。その際に、M7の地震はその近くでは10年経っても起こらないかもしれません。そして11年目にM7の地震が起こったとする。では、それまで10年分の観測記録と、地震が起こったわずか数秒の記録とは、なにか本質的に異なるものなのでしょうか。あるいは、その10年の間に、M6の地震なら複数回起こるかもしれない。その記録から得られた解析結果は、そのままM7の地震に応用できることなのでしょうか。

また、ある人は岩石が露出している崖(露頭といいます)から石(サンプル)を1個研究室に持って帰って、顕微鏡観察用の薄片を作ったとします。持ち帰ったサンプルには、その露頭の中でその石を選んだ必然性があるのでしょうか。仮に露頭から無作為に2個サンプルを抽出したら、サンプルAとサンプルBでは全く同じ鉱物や組織が観察されるのでしょうか。あるいは、もっと広い数kmスケールの地質構造の中では、その露頭と別の露頭では全く同じ現象が観察されるのでしょうか。

これらの問題が研究を行う上で重大な意味を持ってくるのは、たった1つの例外的なサンプル、たった数秒の観測から得られた結果が全体にあてはまると解釈した場合、議論の全てが水泡に帰すことになる可能性を孕んでいるからです。上に挙げた全ての問いについて私は、「時と場合による」という以上の答えを見いだせていません。
結局のところ、スケール依存性というものがあることが問題なのです。自然界は決して理想化された均一なものなどではなく、反応や物質移動が複雑にからみあって、特徴的なスケールとその間の階層性を構成しており、おそろしく不均一で多様な現象が観察されます。観測科学において通常は、ある階層の中では均一であるという仮定のもと、観測する範囲を対象とするものの特徴的スケールよりも広げることで問題を解決しようとしますが、それでもカバーできない場合もあります。そもそも、対象がどんなスケールを持っているかがわからない場合も多い。しかし、あるスケールで観測されたものが一般的な普遍性を持っている場合もあります。スケールに依存しない現象の場合、または自己相似すなわちフラクタルと呼ばれる構造をもつ場合です。

観測とは、たいていの場合恣意的なものです。なぜならそれは、観測対象だけでなく、観測する主体の側、すなわち観測機器や人間の性能を反映した時空間スケールに強く規制されるからです。私たちの身長はたかだか1.8m、平均寿命も80歳そこそこです。なので、空間的にキロメートルを超えたり、ミリメートルを下回ったりするような規模の現象を、機械を使わずに感知するには多大な労力を要します。時間的にも、0.1秒以下で終わってしまうようなものや、逆に1000年を超えるような現象は、日常的な時間感覚だとなかなか理解しがたいものがあります。
一方で、地球惑星科学が対象とする範囲はあまりに幅広く、空間的には原子サイズから太陽系サイズ、時間的にはゼロから50億年サイズまでのものを扱います。そのために電子顕微鏡があり、ロケットがあるのです。地質学者は地球上のあらゆる陸地、時には海底までも這いまわって地質調査をし、地球物理学者は、地球上や地球内部や大気・海洋、宇宙空間のありとあらゆる現象を観測しようとしています。そうして得られた、しかし群盲象を撫でるかの如くまだまだ不完全な知の蓄積が、現在の地球惑星科学です。
それはあまりに茫洋として私たちの日常からかけ離れていて、人によっては、そこまでして知らなくてもいいことと感じられるのかもしれません。


地球上のさまざまな現象のもつ多様性と普遍性、春の訪れに感じる循環と進化。そこに共通するのは、対象と主体の双方がもつ特徴的な時空間スケールの存在と、変わりゆくもの・変わらぬものが同居する自然の豊かさです。時間・空間の呪縛から完全には逃れられないなりにも、それらのことを感じようとする人間の営みに、本質的な違いはないと私は思います。そしてそのたゆまぬ営みこそが、時と場所を超えて共通する、私たちの得た知性の一側面なのではないでしょうか。