2011年02月24日

「大学院で学んだこと」中村 史一


研究というのは結構重労働だなぁと思う。


まず何より解く価値のある研究課題を見つけるのは難しい。
思いつく問いのほとんどがよく考えてみると、解いても価値の無い問題か解くのが非常に難しい問題である。
たまにいいことを思い付いたとほくそ笑んでも、調べてみると大体もう既に研究されている場合が多い。

問いをもとに研究を始めようとしても膨大な先行研究の洪水を必死に読み解かなくてはいけない。
学部までとは異なり教科書に分かりやすく理論体系がまとまっているわけではないし、
その上、論文に書いてあること全てが正しいとは限らない。
どこまでが事実でどこから考察か。そしてどんな前提をもとに研究を進めているのか意識して論文を読まないと思わぬ落とし穴にはまる。

無事、研究課題が決まっても次にそれを解決するという高い壁がそびえ立つ。
実験装置が故障したり、プログラミングのバグが見つかったりと様々な障害が立ちはだかる。
それらを一つ一つ丁寧に取り除いていく。
それでも当初思い描いたストーリー通りの完璧なデータというのはなかなか得られない。
完全なものがそろわない時はその原因を明らかにし、どういったことなら主張できそうか考えて仮説を組み立て直す。
なかなか進みづらい道ではあるが、いつか解決できることを信じて、思案しながら進んでいく。

そうやって無事問題を自分の中で解決に導いてもそれだけでは終わらない。
研究結果は他の人々に認知されてこそ意味がある。
そのためには研究の道筋を分かりやすく整理し、舗装し直す必要がある。
自分や研究室内なら分かる図でも、公表するためにはフォーマットを統一した綺麗な図に描き直す必要も出てくる。
そして発表すれば自分で納得している結果でも多くの質問や思わぬ批判を受けることもある。それらに全て論理的に答える必要がある。

このように研究とはもともとの自分モヤモヤした思いや疑問をモチベーションとして、論理的にストーリーを組み立てて他の人を説得する営みであると捉えることもできよう。
ストーリーという言葉が誤解を招くとしたら、仮説を立て検証することとも言えるかもしれない。
その過程は一筋縄ではいかず、苦労が多いものである。
だがたまに自然の深遠さを垣間見ることができて、報われたような気分になる。


ところで、実は私は今年の3月に修士課程を卒業し4月から就職する。
しかももともと専攻していた物理学とは畑違いの仕事をする予定である。
そのため、大学院での経験は役立つのか?という疑問が湧き上がる。

そう自分に問いかけると、修士課程で学んだことと研究で大変だったこととは密接に結びついているように思える。
小学校から大学までの間を振り返ると自分の頭で考える機会というのはあまり多く無いように思う。
誤解を恐れずに言えば、授業や講義では先人たちが舗装してくれた道の上を歩いていく作業が多い。
これは多分仕事をしてからも似たところがあって、
仕事に慣れるまでは受身的な作業が多い傾向にあるように思う。

それに対して研究は能動的な営みである。
未開の地における知的開拓であるから当然といえば当然なのだが、
本当に自分の頭を120%使う、知的重労働と言えるだろう。

そして社会においても必ずしも研究職に就かなくとも、研究と共通点がある種類の仕事は多いように思う。
例えば新しい客層をターゲットにしたサービスプランの企画や、耐久性に優れコストも抑えられる新素材の開発などなど。
何が正しいかよく分からないし、自分の案を提案すればそれこそ厳しい突っ込みをいろんな人から多数受ける。
しかしそれに対して妥協せずに、もともとのモヤモヤした動機を元に自分の頭で考え続けて論理的なストーリーを組み立て、周囲から受け入れてもらい、実行に移していく。
これってまさに研究で培った能力そのものなのではないか。
そしてこれは重要な力であるにも関わらず、一朝一夕には身につかないことのように思う。

そう考えると、実は研究で培った力は学生という修行の身で鍛錬するものとしてはかなり高度で、かつ汎用性の高い能力なんじゃないかという気になってくる。

もちろんこれは私の短い人生経験の中で考えた個人的な妄想の仮説で、
ここで書いた能力は研究でのみ培われるものでも無ければ、研究でも他に学ぶことはたくさんあると思う。
ここに書いた内容の説得力を上げるためにも、今後の自分の仕事できっちり検証・実行していきたい。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。