2013年10月31日

胃もたれ・吐き気のよいところ (沼田 愛)

先日学内の研究プロジェクトで、中国は重慶市方面を訪ねる機会を得た。
昨年に引き続き、2回目の訪問である。
いちおうの経験者であるからこそ、わたしは戦々恐々としていた。
きっとまた、アレに悩まされるであろう、という予感がしたからだ。
反日感情うんぬんの政治的なことにではない。
霞がかった街を歩いて健康被害がでるのではないか、ということでも当然無い。
問題は、料理と酒に胃が保つかどうか。これである。

中国における公の食事、接待は、料理と酒にあふれている。
ホストは、ゲストが食べきれないほどの料理でもてなしてこそ、接待が成功したことになるから、次から次へと料理が並べられる。
うっかり癖で取り皿を持って食べていたりすると、その皿を戻すスペースに困ってしまうほどだ。
うわぁ辛そうだ、どれから食べようなんてうかうかしていると、勝手に取り皿に盛られる。
食べろ食べろとしきりに勧められる。
もちろん、おいしい。
しかし、これはうまい!と空にした料理はもう一度注文されてしまう。
料理は尽きることがないのだ。ともかく食べなければならない。
それでいてポイントは、わたしはもう十分食べましたよ、と残すことにある。
料理は残してこそ歓待されたことへの感謝であり、相手の顔を立てることになる。
この場は油の量におののきながらも、相手のために食べる(そして残す)ことに意味があるのだ。

しかし料理攻撃以上にキケンなのは、酒による歓待である。
乾杯ののち、いくぶんか箸が落ち着いたころ、ホスト側の代表者が席を立って、ゲストの代表者から順々に、ひとりずつ挨拶に回ってくる。
右手には白酒。ビールということはまずない。
文字通りに乾杯して、つぎの人へと向かっていく。
恐ろしいことに、ホスト側の全員が、順繰りに、同じ挨拶をする。
だからホストが5人なら5人と、それぞれ“乾杯”しなければならない。
これを受けて、ゲスト側もホスト側に同じように、順々に挨拶に回る。
目上の者より先にならぬように挨拶に立つタイミングを見計らいながら、相手方の目上の順を間違えないように、みなが杯を持ってまわるのだ。
全員が円卓を一周するころには、ほろ酔いとも言い難くなってくる。
この合間あいまに、ホスト側の院生が、ゲストが杯を傾けたとみるや、すかさず注ぎにまわってくるのだからたまらない。
女性は公の場で飲酒することは好まれないため、最初の乾杯だけで許されるが、男性陣には容赦がない。
かくして、胃の中は(そして頭のなかも)たいへんな騒ぎになる。

しかし、胃痛や吐き気に悩まされることが目に見えていても出席するのは、それが中国での接待の方法であり、関係性を結ぶための重要な場としての側面を持っているからである。
相手は料理を勧め、酒をついで関係性を結びたいというサインを出している。
そうであれば歓待を受ける私たちも、関係性を結びたいと思っていますよ、というサインを返さなければならない。
度数40を越える白酒と、おいしいけれども油たっぷりの料理。
ゲストとして招かれる食事は、昼夜を問わずにこうして歓待され、関係性を構築し確認していくことになる。

ところで、さもこの通り!とでもいうように書き連ねたが、かれらがとった歓待の行動の意味が、このとおりであるかは、現時点では確証がない。
だからあくまでも仮説としておきたい。
しかし、それでいい。わたしにとってより重要なのは、歓待の意味が理解できたかどうかではなく、理解したと感じてここに書き連ねていることを、“反省”できるかどうかである。

海外に飛び込んだとき、ボディランゲージで通じ合えたと感じた瞬間は、とびあがるほどにうれしいものだ。
二言三言のつたない中国語でも、話せると安心してしまう。
しかし、おそらく誰しもが、時間の経過とともに、それだけでは関係性が結ばれないことを知り、相手の考えを理解することの難しさを再確認する。
そしてわたしの場合、日本人だから日本のことはわかる、と思ってはいけない、という苦い気持ちに行き着くことになる。
じぶんか他者かという位置づけの上では、相手が日本人か中国人かは同じことであるからだ。

日本民俗学を専攻するわたしにとって、フィールドワークをするのは基本的に国内だが、それでも海外に行くことで多くのものを得ることができる。
そのなかの大きなメリットのひとつは、前述のとおり、日本であれば調査できる、そうしていけば理解することができる、と思ってしまうバカな自分に、いやおうなしに気づかされることだろう。
方言でコミュニケーションをとって、相手のことばを方言のままメモすることができる。
ちょっとした仕草に意図をみて、言葉にならない言葉を拾うことができる。
接待で、直会で、葬式で、公の場で自分がどう立ち回ったらいいのかおおよその見立てがたつ。
そして、わかった、つまりはこういうことだ、という結びに落ち着く。
───でも、ほんとうに?

相手の考え、心情、言葉にされない感覚を、ほんとうの意味で理解できることなどない。
そうであるからこそ、“ほんとうに理解できたのか?”と問い続けなければならないだろう。
文化的な事象を描く上で、わかったふりほど怖いものはない。
胃もたれと吐き気(と頭痛)は、日本人だから、コミュニケーションができるから、日本のことはわかることができる、という幻想を打ち砕き、じぶんの足元を見つめ直すための痛みである。


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沼田 愛
東北学院大学大学院文学研究科アジア文化史専攻博士後期課程、ならびに東北学院大学博物館学芸研究員。
専攻は日本民俗学。主に民俗芸能を切り口として地域社会を対象とする研究を進めてきた。近年は東日本大震災によって被災した民俗資料の救出活動(文化財レスキュー)にも携わっている。